一人になって気付く、必要なかったもの。
こんばんは、ヤマネコです。
先日、洋服が増える理由のひとつは他人の視線があるから…という話を書きました。その後改めて考えてみたのですが、その意識は洋服に限らず、私の所持品にも及んでいました。
※話にあう写真が用意できず…本日、無心のまま作り続けた酒粕シリーズ。
私が洋服を買う理由として挙げたのは以下の四つ。
- [主観的] 好きだから
- [客観的] 人気がある・流行だから
- [利欲的] 限定品・限定価格だから
- [効率的] 必要だから
でもこれ、よく考えたら全ての持ち物に当てはまります。
たとえばペン一本にしても、私は昔から「使いやすい」とか「好きだから」という主観的な理由で買っているつもりでした。でも物によっては「持っているとちょっと優越感に浸れる」という気持ちが隠れている場合も確実にありました。
- 憧れの人が持っているもの。
- 高価なもの、限定色の強いもの。
- 他人が欲しいと言っていたもの。
など…鞄や靴といった、目につきやすいものに関しては尚更。今となってはなんで欲しかったのかすら分からないブランド物に憧れていた時代もありました(特に十代の頃)。理由づけの順番は前後するかもしれませんが、他人からの意見を全く気にせずに選んだものというのはとても少なかったと思います。
気付けば、それは子供の頃からずっとのこと。ただ「もの」で得られる優越感はほんの僅かだということにも気付いていました。だから常に新しいものを求め続けていた。新しいものを持たないと話題に入っていけないのではないか、貧乏と思われるんじゃないか、かわいそうと蔑まれるんじゃないかと怯える気持ちを持つ寂しい子供でした。
すこしずつ変わってきた。
それは大人になってからもしばらくズルズル引きずっていたのですが、最近すこし改善しました。
実はほとんど人に会わなくなりまして…というと語弊があるのですが、一日の大半を自宅で過ごす在宅業になったため、家族やご近所さんには日常的に会うものの、友達や仕事仲間のような「持ち物のブランド性を競い合うような(?)人」とは頻繁に会いません。
この環境、更に寂しくなったのでは…とも思ったのですが、ふと気付けば「主観的なもの選び」がしやすくなっていました。たとえ特別なものを持ったとしても自慢できる相手がいないのです。そうなると。かわいい、ステキと思っても、自分が持ちたい、家に置きたいという感覚とは直結しません(便利、多用途、可能性というワードには心惹かれます)。
他人の目を気にせず、自分が好きなものを選べる、持てる、使える。それだけに囲まれて暮らせる。そんな当たり前のことを、私の場合は一人の時間が増えた今、やっとできるようになってきました。
それはやっぱり人目を気にする必要がなくなったから。つまり結局私は見栄っぱりだったということです。
今ならきっと大丈夫。
高価なブランド物には、ブランド物のよさがあります。頑丈であったり、メンテナンスしながら長く使えたり、価格的な理由や思い入れなどで大事に扱う気持ちも膨らむことがあるはず。でも以前の私の場合、そんな理由は後付けで、ただ自尊心を満たすための飾り物として買ったものも少なくありません。
あんなもの、と言っては申し訳ないのですが、優越感に浸るためだけに価値が分からないものを買っていました。
そしてそれが分かってしまった今、頻繁に人に会うような環境に戻ったとしても、おそらく自分の好みを捻じ曲げて、持ち物で競うような気持ちで何かを買ってしまう(貰ってしまう)ことはないと思っています。
見せる相手、聞かせる相手がいなくても、自分の気持ちが満たされるもの。それが主観的に選んだ私にとっての大切なものになりそうです。
トラコミュ。
本日の猫。
腰高くらいの家具の上で寝る子。
最近よく、残像現象が起こります。
ずっと言い続けていますが、カメラは本当に欲しいもののひとつ。