ネコハウス

気付けば、生活の中心が猫でした。

嫌われても、大丈夫。

こんばんは、ヤマネコです。

「好きな人」は、多いほうだと思います。

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友人として、恋人として、家族として、誰かを好きになるというのは幸せな感情だと思っています。少なくとも誰かを嫌いになるより私にとってはよっぽど心地いいし、「好き」という気持ちは常に持ち続けていたいもの。

それは昔から思っていたことですが、以前の私はどんな「好き」であろうとバランスをとることに躍起でした。

相手からこれだけ好きになってもらえたから、同じだけ好きになる。そうでなくてはいけないのだと。


でもこれってすごくハードルが高い行為で、相手が私に向ける「好き」のバロメーターを常にチェックしていなければいけません。相手の「好き」がちょっと下がった!と思ったら、私も減らさなければいけません。私の中ではそんな不可解なルールができあがっていました。

○○してもらったから、○○をお返しする。
同じだけのギブ&テイクが大事。

それが大切な場(ビジネス上のおつきあいなど)もあるけれど、私の場合は相手が友達でも、無意識に同じことを求めていました。そこには「私のほうが好きだったら、相手から利用されてしまうかもしれない」といった不安があったのかもしれません。

逆に、相手のほうが私を好き…という発想は、あまりできませんでしたが、仮にできたとしても、今度は「騙されてるんじゃないか?私のことを好きな風に装っているんじゃないか?」と疑うことも。


ただ、ある時気づいたんです。同じくらい好きでいる努力というのは、同じくらい嫌いになる心構えでもあるんじゃないかと。嫌われたら、嫌い返す。延々とバランスを取り続けていたら、そうなる可能性は十分ある。

感情の駆け引きが楽しめる人もいるだろうし、それで居心地の良い環境がつくれたら良いけれど、たぶん私は違ったのだと思います。


それから少しずつですが、無理に他人との感情バランスをとることをやめています。完璧に実践できてはいませんが、相手がどのくらい私のことを好きと思ってくれているだろう?と想像するのをやめたというか、それは関係ない、と考えるように。


もし相手に嫌われたとしても、私の「好き」は揺るがない。

一歩間違えるとストーカー的な考え方になりそうですが、私の場合は猫に対して抱くような気持ちです。私が彼らを想うのと同じくらい、彼らが私を好きかは分かりませんが、それは関係ない。私にベタベタ甘えてくる子でなくても、好きな気持ちは揺るぎません。

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※「見よ、この筋肉」

でも、相手がよっぽど私のことを嫌いなのだと感じることがあったら、距離を置く努力はします。人の場合であれば徹底的に避けるようなことはしませんが、もしすれ違う時は声を掛けずに会釈をする程度の大人の対応をすればいい。


一方で、好きだと言ってくれる人には同じくらいの気持ちを返したくなるのは変わりません。やさしくしてくれる人には、同じくらいやさしくしたい。物品や目に見える形でなく気持ちの上での話ですが、これは変えなくてもいいのかなと。

この考え方、以前記事にした「布施の心」にちょっと似ています。

好きでいさせてもらえることが、幸せ。
好きな相手が増えることが、楽しい。

相手からどう思われるかは、別の話です。

昔は、自分のほうが好きになる(その状態)というのは損だと考えていたけれど、そもそも相手の気持ちの質量なんて調べようがない。相手が私のことをどう考えているかより、自分の気持ちにフォーカスする。そんな風に考えてみたら、誰かと接する時の気持ちがちょっと楽になりました。


本日の猫。

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ノビッ。

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気持ちが落ち込んでいる時は、身体をほぐすのも大切。