シンプルな人間関係のモヤモヤ。
こんばんは、ヤマネコです。
ここ数週間、ブログやツイッターで「結婚式」の話題をよく拝見していたのですが、ジューンブライドだからか、とようやく気がつきました。次いで思い出したことがあります。
今回も関係ない写真から…とうとう、箱の耳(?)を切り落としました。
結婚式に呼ばれ、驚く。
思い出したというのは、友人の結婚式のこと…と書きながらも少し違和感があります。というのも、私は友人だと思っていなかったからです…いえ、それも語弊があるかもしれません。
- かつてのクラスメート(女性)であることは間違いない。
- 顔も名前も(名簿で住所・連絡先も)知っている。
- 仲良しグループが違ったため、ほとんど会話した記憶がない。
- 決して仲が悪かったわけではない。
- 成人後、なんとなくSNSでつながっていたけれど交流はほぼゼロ。
…そんな同級生から突然メールをもらい、結婚式に呼ばれました。
正直「え?何で?」が私の最初の気持ち。前述どおりの交流状況だったので、純粋に不思議で。最初は同級生のほとんどに声をかけているのかと思ったら、どうやらそうでもない様子…では間違って私を誘ったのかと言うと、それも違う雰囲気。
しかもその結婚式というのはメールから約一年後の日付けで、「予定があるから行けない」という回答(真偽はともかく)はかなり無理がある状況でした。実際に参列できるか否かはともかく、ほとんどの人が「ぜひ行きたい」と回答するようなタイミング…かな?と思います。
人付き合いの重み。
私はもともと人見知りで、人付き合いも上手ではありません。でも昔は無理してでも広く浅くの交流を続けていました。たくさん友達がいることが、一種のステータスだと思っていたからです。
今はそれに疲れてしまい、友人と呼べるのは大好きな人が数人だけ。でも、たくさんの希薄なつながりに縋っていた頃より、今のほうが幸せで、とても心地よく安心して呼吸できる気がしています。
このお誘いを受けたのは、ちょうど友人関係を整えたいと意識的に動き出し、SNS断ちを始めた時期でした。良くも悪くもそんなタイミングだったので、そのお誘いへの回答は私にとってちょっとした「試練」のように感じたのだと思います。
私の出した結論。
当時、大げさなようですが…泣きたい気持ちで悩みました。
おそらく「ぜひ伺います」と答えておくのが一番楽で、誰も傷つかない方法。直前(招待状が届く頃)にどう考えるか…それは先送りにして。でもおそらく相手は大体の人数を把握したいという事務的な事情もあるだろうし、迷いながら「行きます」と言うのは不誠実極まりない気がしたんです。
そして結局、私は本音をぶつけてしまいました。
声をかけてもらって嬉しかったこと。
でも驚いたこと。
最近人付き合いに疲れてしまったこと。
だから今は、快諾できないこと。
嫌われる覚悟もありました。その後、怒りの返信があるか、ご祝儀目的で呼んだだけだよ!と悪態つかれるか、あるいはどうでもいいやと無視されるか…と思ったら、かなり長文メールが届き…要約すると「悩ませてごめん、本当にごめん」という内容に、申し訳なさがあふれてきて、反面、安堵したのを覚えています。
その後何度か(数ヶ月)メールをやり取りして、初めて彼女の人となりを知った気がしますが、結局彼女との関係はそれっきり…そんな話を、最近になって思い出したのでした。
すっきりの向こう側。
私はその時、すっきりしました。
嘘をつかずに済んで、言いたいことが言えて、無理な交流をやめて。でも彼女の幸せに水を差すような返答が、今考えても正解だったと断言はできません。私の利己的な判断に対し、彼女がとても優しく返してくれたことを思い出すと、自分の身勝手さが痛くなり、すっきりを通り越して虚無感のようなものに襲われます。
逆に、この件とはまったく別の人とは「絶ってよかった縁」というのもありました。会うたびに落ち込む、嫌な気持ちばかり増す…そういう関係からは、もう我慢せずに逃げます。
他のブロガーさんからは「捨てて後悔、絶って後悔はあまりない」と聞きますが、私はちょこちょこ悔やむので、まだまだ見極めが甘いのだろうな…と。持ち物を減らしたり人間関係をシンプルにする中で、本当に大切なものを手放さないよう、自分の感覚を研ぎ澄まさなければと改めて思います。
トラコミュ。
本日の猫、(記事冒頭の写真から続く)というわけで箱がシンプルになりました。
そこに座り込んだ子。
それを見つめる子。
時々覗くしっぽを狙っていたのですが、結果的にダンボールが半壊しました。